I N T R O D U C T I O N
FOR YOUR NEW DISCOVERY


弊社の独自商品は東アジアの文化情報・渡航情報

Information for traveling to  East Asia and its Cultures in Japan

旅行業務を通じて独自に入手した外国文化情報の中から日本文化・歴史に関連する事実を当社独自に研究し、皆様方に情報発信し、これらの諸国に興味のある方の為に、現地への渡航のお手伝いをします。営業と研究は一体です。

皆様方にはぜひ、日本古代文化の源流である中国東北部への渡航をおすすめします。

中国への航空券、査証、ホテルの手配等はそれに付随するサービスの一環です。

東アジア文化を知れば日本文化・日本史の認識の盲点が連鎖的に浮彫に!

1月1日は何の日?公立の学校では教えてもらえないのです。

中国・ベトナムが太陰暦の正月を重視する事。今の日本の正月はユダヤの風習に従い、キリスト生誕後7日目に、「JESUS」と命名された聖なる祝日を1年の始まりとするキリスト教のユリウス暦の正月なのです。太陽暦の正月元旦は冬至であり、桓武天皇は冬至の日に天壇の上から天神(アマツカミ)に礼拝をされております
しかし明治時代に日本が今のカレンダーに変えた12月3日の暦の日に関する報道や教育の現場では今のカレンダーが「太陽暦」と科学的に誤った表現・教育を続けております。
日本人が伊勢神宮、熊野本宮、天神社等に初詣する吉日は冬至の日なのです!
そして地上の神を祭る神社に参拝する正月は太陰暦の正月であるべきでは? 正月とは各民族の宗教文化の根幹的重要性を持つ祝日なのです。
仏教国タイでは4月のお釈迦様の誕生日を祝います。これは仏教の正月なのです。
信仰の自由という近代思想以前の日本文化の根幹である伝統的な神社への初詣。キリスト教の吉日ではなく、本来の吉日に初詣が出来ない不幸を
解消するべきです。

東アジア文化=道教文化(北極星信仰・天帝(天神)・四神・太陰暦・太陽暦・風水・陰陽道)

中国系の仏教寺院では信者が天竺の方角を向かずに北向きに祈るのがまさに道教の影響なのです。

東アジアの最高神「天神」とは? 神こそ民族文化の象徴

Tenjin(The God of Heaven)is the God of Gods of Japan and East Asia

The place of The God of Heaven exist is at North Star, the center of the heaven.

Many people have been believed that Tenjin is the God of Studies. But Tenjin meansthe God of Heaven Sugawara Michizane was the Saint that believed the God of Heaven.

日本の道教文化の痕跡は天神としてかすかに残っております。しかし、現実には「学問の神様」との錯覚がはびこり、受験生意外はだれも興味を持たないのです。しかし、当社の天神研究の出発点は次の事実からです。しかし、高句麗・朝鮮では太陽を「天神」と呼んでいる事が判明しました。日本では、この高句麗系の太陽を天神とする思想と中国系の北極星を天神とする思想が混在している事に気づきました。
後者は百済からの亡命渡来人達が日本へもたらしたもので、下記の桓武天皇時代に起源を持つ交野天神社や菅原道真の天拝は正に北極星信仰そのものであり、本当の天神信仰なのです。

1.京都北野天満宮の国宝北野天神絵巻の中の「菅原道真天拝図」で道真が天拝山(福岡県)の上から天に向かって

「南無天満天神」と書いた文を竹の先に挟んで捧げて祈っている場面。これは天神が天神に向かって拝んでいる!

この図はまさに、キリスト教の例に合わせて表現すれば、道真は天神に信仰を捧げた「聖人」なのです。この場合、明らかに北極星が天神です。

St. Sugawawa  Michizane,’s worship to Tenjin ,the God of Heaven at Mt.Tenpaizan, Fukuoka-ken.  

2.古事記・日本書紀にも繰り返し記述され、神武天皇を「天神の御子(アマツカミノミコ)」と表記。記紀では神武天皇が熊野山中で道に迷った時に案内をしたヤタ烏を遣わしたのは、古事記では天神、日本書記では天照大神と記されております。この事により、この二つの書物に記されている天神と天照大神はどちらも太陽神であり、高句麗の太陽を天神とする思想に基いて書かれている事がわかりました。高句麗と朝鮮では天神=太陽であり、高句麗初代の王、朱蒙は父、天神と母、水神の子として朝鮮では理解されております

熊野本宮のヤタ烏
古事記・日本書記の表記に従い、天神・天照大神に遣わされた烏の紋章

4.東アジア諸国の共通の道教の最高神、「天神」は北極星

日本・朝鮮:天神
中国:天帝 天皇大帝
越南(ベトナム):天上神
(今でもベトナム北部の道教寺院に漢字で表記されております。)

 

日本にも北京の天壇よりも古い天壇が!
中国の天壇は皇帝が天神に礼拝したり、天神の下で重要な即位等の儀式をするための施設です。西安市郊外でも天壇の遺跡が発見されております。
天神を中国では天帝と表記、道教の天文図では北極星が天皇大帝と表記されております。
しかし注目すべきはこの日本最古級の天神社には高句麗系の太陽を天神とする信仰と中国の北極星を天神とする信仰が混在している事なのです。そして韓国ではあまり残っていない高句麗の太陽信仰が百済にもあった事を示す遺構なのです。
TIANTAN OF JAPAN THAT IS OLDER THAN THAT OF BEIJING!
THE STAGE FOR EMPEROR TO DIRECT ACCESS TO THE GOD OF HEAVEN.


桓武天皇が父 光仁天皇(A.D.770−780)を天神として祭った交野天神社。大阪府枚方市 菅原道真以前の代表的天神社の一つ。実はこの社殿の場所が真の継体天皇樟葉の宮跡の可能性があります。下記の土壇と男山が鬼門の方角に一直線で並ぶのです。天神社は中国の北極星を天神(天帝)とする南向きになっており、背後の桓武天皇の冬至礼拝の郊祀壇と思われる遺構が示す太陽を天神とする高句麗系の太陽信仰が混在しているのです。
Katano Shrine of The God of Heaven , Hirakata City., Osaka-fu. 8th Century.

男山南西の麓の交野天神社の境内、北東に位置する土壇。            北京の天檀Tiantan in Beijing
上には貴船神社の祠が建てられております。これこそ日本の天壇         これは北極星に祈る構造になっております。
継体天皇即位に使用A.D.507年、
桓武天皇の冬至礼拝の郊祀壇 延暦6年(A.D.787)
石段が西の麓から東の壇上に向かって登るようになっております。
これは冬至の日の出に礼拝するための構造に外ならず、太陽を天神とする
高句麗の思想が百済系の天神信仰が太陽崇拝であった事が百済の血を引く
桓武天皇の天神信仰にも影響していた事を示す注目の遺構です。

This mound will be the Tiantan of Emperor Keitai built A.D.507 & Emperor Kanmu used for the worship in A.D.787 located at the north east of Katano Tenjin Shrine,Hirakata-shi,Osakafu.
This Tiantan is the same purpose to worship to the god of the heaven by the emperors of China.
But this Japanese Tiantan is older than that of Beijing,China built between 1406-1420 A.D.
大阪府枚方市の交野天神社(カタノアマツカミノヤシロ)に残る、桓武天皇が天壇を築いて冬至の日に天神に祈ったという続日本記の記録と天壇と思われる土壇。桓武天皇はこの天壇で即位した可能性もあります。この天壇は北京の天壇よりも古く、特別史跡に値します。多分継体天皇も同じ天壇で中国式にこの上で即位した可能性があります。(継体天皇樟葉宮跡と表示されておりますが面積と形がまさに天壇)すぐ北東の背後に男山が迫る山裾の言わば歪な位置のため、この土壇に上がる階段は西側から上がるようになっておりますが、多分本来は南から上がるようになっていたはず。本来天皇しか上がる事が許されない聖なる壇がなぜこんな男山の斜め山裾に?その答えは風水だったのです!

平安以前の古社寺 皇居(宮)と風水

山の南西裾に南向の古い神社や寺がある例を他にも発見!
京都府亀岡市出雲大神宮と千歳山、奈良春日大社と三笠山山頂の古墳、京都清水寺と東山将軍塚、これこそ風水に従って、建造した事が想像できます。この事から三笠山山頂の墓は春日大社ゆかりの武将の墓でしょう。そして清水寺の舞台は展望台ではなく、東山の坂上田村麻呂の兜を埋めた「将軍塚」からの風水を受けながら北極星と観音様を同時に礼拝する事が主目的と思われます。

そして、以下に御紹介する大阪城本丸の場所は巨大古墳であって、この「山」を風水の鬼門の防御の山と認識して二人の天皇が南西の麓に難波の宮を建てておられるのです。これが史跡難波の宮跡です。大化の改新以前からこの巨大古墳が存在していた証としても極めて重要です。古代の巨大古墳の形を復元して史跡を一体的に保存すべきです。

NAINIWANOMIYA PALACE SITE 645A.D.&744A.D.IS LOCATED AT THE 
SOUTH WEST BESIDE OF A GREAT TOMB,PRESENT OSAKA CASTLE.
THIS FORMATION OF THE PLACES OF IMPERIAL PALACES IN OSAKA
ARE VISIBLE AT 2 MORE IMPERIAL PALACES.
EMPEROR NINTOKU’S PALACE SITE AND MT.SANADAYAMA IN TENNOJI−KU,AND EMPEROR KEITAI’S PALACE AND MT.OTOKOYAMA IN HIRAKATA CITY. 
西暦645年孝徳天皇、西暦744年聖武天皇が宮を建てた時、巨大古墳の南西の場所を選んだのです。北東の後方(鬼門の方角)に見える大阪城天守閣の場所が古墳後円部の中心です。

重要なのはこの巨大古墳にだれが埋葬されているのかなのです。
実は、仁徳天皇の浪速の宮も丁度南の方角の真田山の南西麓、現在の天王寺区餌差町、現在、 高津高校敷地に建てられていたのです。
これで枚方市の継体天皇樟葉の宮を含めて、大阪府内の天皇の宮で山の南西麓に建てられているものが4つ存在する事になるのです。この事実は、以下に御紹介する大阪城敷地が本来古墳であり、その巨大古墳が7−8世紀の非常時に二人の天皇が大和から逃れて浪速の宮の建設に際して場所を決めた際に、風水の法則で重要な要素となった事になります。

 

「大阪城本丸の下が仁徳天皇陵!」それは倭の五王の時代の都のかけがえのない象徴的遺跡なのです!空白の時代とされる倭の五王の時代の中心としての「浪速」(大阪)が浮かび上るのです!仁徳天皇が築かれた都、浪速は飛鳥よりも前の時代なのです。仏教渡来以前の都だったのです!仏教よりも早く倭王讃の時代に中国東晋から伝来した道教の痕跡が天神として残っているのです。日本最古の鶴橋跡に近い天神は梅ではなく鶴の紋です。最古の天神で仁徳天皇の時代にさかのぼる可能性があります。
道教の北極星信仰により、仁徳天皇が自らの永遠の眠りの場所として自らの陵墓の場所として選ばれた場所は真田山の西南山麓の皇居の真北の方角!そこは北極星の下、現在の大阪城本丸の場所なのです。この事例により、倭王讃=仁徳天皇という状況が成立します。

Osaka Castle was built on the tomb of Emperor Nintoku ,5th Century!

Look at the main part of Osaka Castle in your map. The shape is typical Japanese emperors tombs of 5 th century.
And this tomb is the symbolic site of the capital city of Japan
of 5th century that is called "5 Kings' Period of WO(Japan)".
Now UNESCO have to realize the importance
of this site of the great tomb of the king of Japan of 5 th century.
Some key words of the place of the tomb were written in
Kojiki and Nippon Shoki the books of Royal History of Japan.   


伏見桃山 幻の「山の天神」
THE LOST TENJIN SHRINE ON
MOUNT MOMOYAMA,FUSHIMI-KU,KYOTO.

桓武天皇没後、京都の桓武天皇陵のそばに天皇の守護神として天神社(アマツカミノヤシロ)が建てられと思われます。この天神社を桓武天皇陵と共に秀吉が伏見城の城壁を築く際に破壊したようです。伏見の御香宮神社境内の桃山天満宮の説明板には元々桃山の上にあり、「山の天神」と呼ばれていたと記されているのです。

この天神社は江戸時代初期の徳川家光による伏見城破壊の際に、昭和時代の伏見桃山城の場所に再建されていたようです。現在の「桓武天皇陵」の東隣です。この時点でも桓武天皇と天神の関係
は深いものである事が認識されていたようです。しかし、実際の桓武天皇陵はもっと山の上にあった
との古記録の記述が指摘されております。そこで山の天神の元の場所として最も可能性のある場所
を探しますと、古御香宮と隣接する宮内庁陵墓参考地こそがその場所として浮かびあがりました。
桓武天皇陵は元々「山の天神」の真南にあった可能性があり、現在は伏見城の外堀工事に伴い、桓武天皇陵は跡形もなく消滅してしまっております。しかし、その棺と信じられる物のみが残されているのです。
この行為の発見で、天神様のお告げを受けたように目の前が開けてきました。


桃山の宮内庁陵墓参考地の中に残る天神社の       桃山山上の桓武天皇陵跡に残された石棺
参道の痕跡が真南に向かって残っております。       隙間だらけの構造は例がなく、桓武天皇の死後、
 このフェンスの手前に平安時代初頭、天神社       光仁天皇を天神として祭っておられた桓武天皇も
が建っていたと思われます。                  天神として葬られた可能性があります。神の力を
                                    死後も外へ及ぼし、国を守護してもらう事を祈願?

THE REMAINED OLD PASSAGE FROM THE SHRINE
OF THE GOOD OF HEAVEN TO PROTECT EMPEROR
KANMU'S TOMB.(THE 1ST EMPEROR OF KYOTO)      THE COFFIN OF EMPEROR KANMU,Mt.Momoyama,Kyoto.

THE TOMB OF EMPEROR KANMU WAS DESTOROIED BY TOYOTOMI HIDEYOSHI WHEN HE BUILT FUSHIMI MOMOYAMA CASTLE..                        

大阪城は!? HOW ABOUT OSAKA CASTLE!?

ここに浮かび上がる倭の五王の時代の倭王讃の陵!
THIS CASTLE WILL BE BUILT ON THE TOMB OF KING ZAN OF WO(JAPAN),5th CENTURY IN THE BOOK OF CHINA!

秀吉の伏見城に先立つ、大阪城の築城。そこは堀に囲まれ、前方部が石山本願寺跡、後円部は中国集安の高句麗好太王陵のように石が積まれた「石山」であったと想像でき、そこが天皇陵である事を認識の上で築城した可能性があります。

大阪市中央区の地図上でも明らかに大阪城本丸は前方後円墳の形をしております。堺の大仙古墳は既に戦後米軍により発掘され出土品がボストンの博物館に展示され、仁徳帝の時代よりも新しい事が確認されているそうです。

大阪城本丸の下に葬られているのが天皇とすると、場所から推定すれば難波の宮を造った仁徳天皇の陵の可能性が強いのです。

下図にて判別できるPOINT  
THE BASIC POINTS SHOWN IN THE PICTURE AS BELLOW
   

1.豊臣・徳川時代の石垣で少し変形した前方後円墳のおもかげ THE SHAPE OF THE TYPICAL TOMB OF 5th CENTURY
   2.古事記に記述されている仁徳天皇陵所在地の「耳原」。丁度外堀が第二寝屋川と斜めに接する位置関係が耳の形になっております。これが決定的です。
角川日本古典文庫 古事記 下つ巻 仁徳天皇:「御陵は毛受の耳原にあり。」
岩波文庫 日本書記 (二)巻第十一おおさざきのすめらみこと 仁徳天皇:百舌鳥野陵に葬りまつる。」

ここで古事記の「毛受」と日本書記の「百舌鳥」はどちらも同じ場所・地名を記す表音文字であると考えますと、古代人が、こう呼んだ可能性のある場所が必ず存在するのです。

THE SHAPE OF THE EAR AS WRITTEN IN THE BOOK "KOJIKI" THE PLACE OF EMPEROR NINTOKU'S TOMB IS LOCATED AT EAR FIELD. JUST THE FORMATION OF DAINI NEYAGAWA RIVER AND THE MOAT IS LIKE THE EAR.   



大阪城本丸 THE MAIN PART OF OSAKA CASTLE AND THE TOMB OF EMPEROR OJIN.


大阪城本丸の大きさは羽曳野市の応神天皇陵とほぼ同じ規模
THE SIZE OF THE MAIN PART OF OSAKA CASTLE IS ABOUT THE SAME AS EMPEROR OJIN'S TOMB IN HABIKINO CITY. EMPEROR OJIN IS THE FATHER OF EMPEROR NINTOKU.
大阪城本丸の大きさを、仁徳天皇の父、応神天皇の陵(羽曳野市)とドライブ用の25000分の1の地図で比較しますと、ほぼ同じ大きさで、少し大阪城本丸の方が小さいのです。地図によって測定した両古墳の墳丘の大きさは下記のとおりです。

THE 2 TOMB'S SIZE
応神天皇陵  全長 425m  最広部の巾 312m 最狭部の巾 250m
EMPEROR OJIN'S TOMB: Length 425m, MAX WIDTH 312m,MINIMUM WIDTH 250m

大阪城本丸  全長  400m  最広部の巾 250m 最狭部の巾  225m
OSAKA CASTLE: Length 400m, MAX WIDTH 250m, MINIMUM WIDTH 225m

 古事記の記述では仁徳天皇は自分で自分が生きている間に陵を建設された事が記述されております。つまり応神天皇陵を築造後、まもなく自分の陵を造られる際に、父応神天皇の陵よりも少し小さく造られた事は、仁と徳の精神を持っておられた方の行為として極めて合理的です
大阪城本丸の裏口の石垣に埋め込まれた三対の陵墓石室の前壁・後壁・側壁・床・天井石
The 3 pairs of stones for the room of the tomb are used to the 2 walls of the main part of Osaka castle.


本丸北側外南の石垣             本丸北側外西の石垣
The south wall of the north gate. The west wall of the north gate.

大阪城本丸の裏口外側の南と西の石垣に陵墓の石室の側壁石として造られたと思われる三対の石材が計6個埋め込まれているのです。
これら6個を組み合わせると陵墓の石室が完成します。しかしこの大きさでは、
、王、天皇の陵の主石室のものではなく、応神天皇陵にも見られる、側近の陵の物である可能性が高いと思われます。
ほぼ等身大の大きさですので、この中に石棺を入れる事はできないと思われますが、ここに存在していた「石山本願寺」の名から推察しますと石積式の陵墓であったと思われます。日本では石積式陵墓は箸墓等がありますが発掘例が少ないのです。
しかし、石積み古墳の多い高句麗の都であった集安市の古墳には、ほとんど石棺は使用されておらず、博物館にも市内にも石棺が見当たりません。
日本では博物館や寺の境内に多く安置されておりますが。それらはもっと後の飛鳥時代以降のものです。

中国吉林省集安市の高句麗広開土好太王陵

典型的な石積陵、石室は地表よりも高い位置にあり、石室には石棺は使用しておりません。


倭王讃の時代はまさに高句麗の全盛期で広太王脾に倭の名が記されている点からも文化的共通点が陵墓にも存在していると思われます。

したがって、この大阪城古墳の陵墓にも石棺は使用されていなかった可能性があります。
南と西の石垣にそれぞれが対を成す石が存在している事は城の石垣用の石としては不自然と言えるのです。
この城壁建設現場を指揮した人物が秀吉の無謀な行為を後世に伝えるべく、ぎりぎりの方法で痕跡を残したのかもしれません。

仁徳陵に関する古事記・日本書紀の記述を分析


The Key Words of the place of the tomb of Emperor Nintoku

キーワード 1 「石津」Key word 1 The Stone Port

日本書紀に記述されている、(老いた)仁徳天皇自らが生存中に陵の場所として選んだ「石津」。難波の宮のすぐ北の天満橋付近は難波の宮に石材を陸揚げする港として最適地なのです。したがって、複数の都が造られた河内には複数の「石津」が存在し、都市化が遅れた堺市の石津は、今の羽曳野市・松原市・美原町に造営された2代後の反正天皇の丹比の宮造成用の海から一番近い位置で石津の地名として残っているのに違いありません。老いた仁徳天皇が自分の宮から歩いて行ける距離で自分が将来眠る陵墓の造成工事を常時観察できる場所として今の大阪城の地を選ばれたのです。次の履中天皇は大和に遷都。これらの書紀の記述からは仁徳帝の難波の宮の引き継ぎ手不在の侘しさから決められた墓所なのです。巨大な陵墓が完成した時、ここにあった石津(石の港)は消滅したのです。

キーワード 2 「百舌鳥」・「毛受」(MOJU)は「百州」=今の大阪市中心部!
この二つの地名が現在のどこなのか?それが最も重要な鍵

「耳原」mimihara(Ear Field)

The Key Word 2 MOJU is the central part of Osaka City where was many sand banks

Ear Field The place of Osaka Castle beside of a river is the shape of the ear. 

 

仁徳陵の所在地として、日本書紀が記述する百舌鳥は江戸時代に、最も大きな古墳が仁徳陵に違いないのとの認識で、今の大仙古墳のある大阪府堺市の地に付けられた地名で日本書紀が書かれた時代からこの地名がここに存在していたのではないのです。古事記に記述されている毛受耳原は百州耳原、の可能性があります。「もじゅ」がキーワードです。

「毛受」「百舌鳥」には仁徳・履中・反正の3人の天皇しか葬られていない特別な場所なのです。   
堺市の「百舌鳥」には天皇陵級の「にさんざい古墳」「御廟山古墳」等が「大仙古墳」(いわゆる仁徳陵)との間に山や川等の境界もない場所に存在します。

実は「毛受」の場所を特定する重要な手がかりとなる古墳が大阪市生野区の御勝山古墳と天王寺公園内の茶臼山古墳なのです。
仁徳天皇が建造された日本で最初の橋「鶴橋」から延びる古代の街道の脇に位置する御勝山古墳は、毛受で生まれ、磐余大和へ遷都した履中天皇が死後葬られた場所として合理的です。
死後、生まれた場所に陵を築いて葬られた例は明治天皇(京都で生まれ、東京で崩御)・高句麗の長寿王(国内城で生まれ、平壌で死亡)などがあります。
現在は勝山通が前方部と後円部を分断しております。出土品の年代が5世紀初めとされ、時代
も一致するのです。

TOMB OF OKACHIYAMA IKUNO-KU,OSAKA WILL BE THE TOMB OF EMPEROR
RICHU,400-405 A.D.
ONE OF THE 3 IMPERIAL TOMBS IN MOJU
MOZU WRITTEN IN KOJIKI & NIPPON SHOKI.
AND ALSO A KING OF THE 5 KINGS OF WO(JAPAN)IN CHINESE HISTORY.
大阪市生野区 御勝山古墳は履中天皇陵か?  この古墳の向こう側に仁徳天皇時代からの 
鶴橋街道が南東の河内・大和へ向かって残っております。その起点、鶴橋は日本の歴史に記述される最初の橋なのです。「鶴橋跡」の石碑が建っております。まさにこの場所は浪速で生まれ、磐余で崩御された履中天皇が埋葬されるにふさわしい場所なのです。

茶臼山古墳                            茶臼山古墳から出土と考えられる石棺の蓋石、四天王寺

CHAUSUYAMA TOMB IN TENNOJI PARK WILL BE 
THE TOMB OF EMPEROR HANZEI,406-411 A.D.,ONE OF THE 3 TOMBS IN MOJU,MOZU WRITTEN IN KOJIKI & NIPPON SHOKI.EMPEROR HANZEI WILL BE A KING OF 5 KINGS OF WO(JAPAN) IN THE HISTORY OF CHINA.
天王寺公園内の茶臼山古墳は倭の五王の一人、反正天皇陵か?四天王寺境内の石棺の蓋石の大きさは子供用のサイズなのです。
古事記の記述では反正天皇は60才で崩御と記されております。在位6年、即位時54才、身長9尺2寸半、しかし歯並びに関する記述では幼少だった可能性も上するのでは、と感じられます。普通老年者の歯を記述して、このような表現はしないのでは?

古事記の筆者、大朝臣安万呂
古事記に描写されている建国神話の内容は高句麗卒本の光景を見た者以外には描けない光景なのです。
大朝臣(「おおの」とは読めず、姓ではなく、大臣を意味する肩書)の安万呂(アンマンリョ)は朝鮮高句麗の人なので、百は「PAEK」と発音するので、朝鮮語でも「MO」と発音する字で表記したのです。毛受(MOJU)が実際は百州(MOJU)なら後に八百八橋と表現される、正に大阪の当時の地形を表しております。「百州」と呼ばれる海岸の「無数の砂州」により「難波」と呼ばれる波浪が発生していたのです。淀川・寝屋川・新寝屋川が合流する天満橋付近から下流の現在の大阪市中心部は当時多くの砂州が集まる地形で、百州(もず)と呼ばれていた可能性があります。今でも大阪城外堀と川が接する部分の東側の地形から耳の形をした場所であったと想像できます。大阪の古地図には百済州と書かれた島も描かれております。これも百州(MOJU)に結びつきます。

大阪城の超巨大な「蛸石」は陵墓被葬者の怨霊封じの目的?


THE GREAT STONE WALL WILL BE FOR PROTECT OUT COMING OF THE GOHST FROM THE 
MAIN PART OF THE GREAT TOMB.BECAUSE THIS GREAT STONE WALL OF OSAKA CASTLE
IS SET AT THE NORTH DIRECTION OF THE CENTRAL PART OF GREAT TOMB WHERE IS 
OSAKA CASTLE’S MAIN PART.

大阪城の有名な超巨大な石の壁「蛸石」。これは徳川家康による改築の際に設置されたそうです。労力と効果の点で軍事的城砦にこのように巨大な石でなければならない理由を考えないわけにはゆきません。江戸城にも例がないのですから。考えられるのはただ一つ。この石壁が大手門をくぐり、陵墓の棺のある後円部に向かう方角にのみ設置されている事。普通の石垣なら、この低い場所に石垣の隙間から陵墓被葬者の怨霊が出てくるのを恐れ、それを封じ込める為ではないのか?この事からは、城を改築の際に、ここが陵墓である事を徳川家が承知していた事が想像できます。
今、この石壁は日本版「嘆きの壁」であり、浪速の町の基礎を築かれた古代の王への陵墓参拝の場なのです。
ここから偉大なる大王の封じ込められた陵墓へ礼拝をしましょう!



千利休の切腹処刑の動機として最も合理性


前方後円墳の多い堺から京へ来た千利休は天皇陵の可能性のある「石山古墳」に大阪城を築城した秀吉が伏見城の建設計画でも神聖な場所を破壊する工事計画に命をかけて反対したのでは?
そして後に、千利休の妻も石田光成によって殺害され、その動機が歴史上の謎となっているのです。

秀吉は神? 日本では封印されている長崎26聖人の両耳切り落とし

Hideyoshi ,who built Osaka Castle on the top of great king's tomb, cant be a God, but as if he is a God after Meiji in Japan.


西暦1597年1月 豊臣秀吉のキリシタン洛中引き回し
6人の外国人宣教師は足を切断され、耳を削ぎ落とされて、17人の日本人信者と共に、洛中を引き回され、長崎へ連行されました。

このデッサンはマニラの教会に残された日本におけるキリスト教宣教師の活動記録の資料を基に執筆されたESTOURNET神父の著書に描かれたものです。
KYOTO,January 1597 TOYOTOMI Hideyoshi ordered to cut off the ears of 26 christians including 6 cathoric fathers and monks from Spain, Portugal. And sent to Nagasaki.
Dessin: Gilles ROUSSEL,Paris.

秀吉は大阪城内と京都で「神」として祀られております。しかし秀吉が頂点に立ってからの行いは小説では語られておりません。京・大坂高槻で捕らえた26人の外国人神父と日本人キリシタンの耳を削ぎ落として、約800KM西方の長崎へ連行し、磔の刑にした状況が宣教師を通じローマ カトリック本山に報告され、その800KMの十字架の道の記録にはキリストよりも過酷な殉教と認識した図も描かれております。犠牲になった26人は聖人に列せられております。という事は、キリスト教では秀吉がローマの皇帝ネロと同格になった事を意味します。

長崎におけるスペイン・イタリア・フランス出身宣教師と日本人信者の殉教記録の一部をフランス人として最初に日本に上陸し、長崎で処刑されたGILLOUME COURTET神父の出身地のSERIGNANの僧院長J.ESTOURNET神父の著書「LES SAINTS MARTYRS DE NAGASAKI」(長崎における聖人達の殉教)に記されております。第一部が豊臣秀吉による26聖人の処刑。第二部が島原の乱の時期のフランス、スペイン、イタリア人宣教師の殉教記録です。

ESTOURNET神父を1968年にパリの神父から紹介され、COURTET神父を聖人として列聖するための手続きの一環として来日された際に京都にて御案内する機会を得ましたが、事情理解していなかったので単なる観光案内に終わっておりました。ESTOURNET神父を京都でお世話した後、何回も書簡を交わしました。同時期、フランス外務省の方や東京の暁星学園のP.アンベールクロード校長からもレターを頂きました。モンペリエ大学の哲学者や南極越冬隊の生物研究生の来訪も受けました。しかし、島原の乱の史実の裏面に隠された上述のクルテ神父の殉教記録は近年そのフランス語の著書から知りました。 

秀吉の朝鮮での行為や評価は周知のとおりで、切り取った朝鮮人の多くの耳を持ち帰る事を命じたのです。外国では秀吉は「神」ではないのです。現代の日本人にとっても実態が明らかになれば「秀吉は神のような偉人」とのマインドコントロールが解けるはずです。多くの人は陵墓の上に城を建てられたり、陵を守る天神社を破壊された、天皇達の無念の心を感じずにはおられないでしょう。

過去の権力者による重要な文化遺産の破壊に対する歴史的評価と復元のための研究が必要です。  
我々が学校で教えてもらっていない大阪城関連で浮かび上る
隠された以外な事実
明治初頭時点までの約300年間、大阪城の紋章は当然「葵」の紋だったのです!
大阪府が「県」ではなく「府」になった原点は大阪が徳川幕府直轄都市であり、大阪城の城主は歴代徳川将軍だったから廃藩置県の対象外になったのです!しかし歴代の徳川将軍が大阪城へ来た記録はあまり公開もされておりません。幕末に徳川慶喜が大阪城に滞在した事ぐらいでしょうか? 島原の乱の際に徳川家光が大軍を率いて京都二条城へ入城した記録があります。この時、大阪城へも入城したと思われます。 
明治時代に始まる豊臣秀吉神格化の迷信の象徴として大阪城には「桐」の紋が付いていると思っている人が多いでしょう。これは明治憲法と同格の時代遅れのマインドコントロールの遺物と言えないでしょうか?この事が倭の五王の時代の研究の障害となっているのです。

天神ルネッサンス!

北野天満宮 京都の北野天満宮は記録に記されているとおり、菅原道真を、京都人が恐れた北西方角から襲ってくる雷神「丹波太郎」を避ける神として祀ったのが起源です。この事が後に天神に対する誤解を生みました。この神社は菅原道真が信仰した天神を道真を失脚させた勢力が、むしろ侮辱的に祀ったのが起源なのです。北西の方角は天神を祀る方角ではないのです。天神様は天の中心北極星にまします神で地上の天神社は本来拝殿のみで、地上には祀るべきではないのです。北の方角の地上には「玄武」を祀ります。平安京では船岡山を北の方角の守護神「玄武」に見立て設計されております。

中臣氏・藤原氏の天神 京都市伏見区小栗栖、中臣氏の故地、山科の南に藤原釜足の子、定恵が天智天皇の大津京時代の西暦670年頃に建立と記録に残る、天神宮があります。南の山裾から一直線に登る石段のかなたの北の天空は北極星の方角であり、上に登るとそこにはイザナギのミコト・イザナミのミコトが鎮座する社があります。まさに、ここは高天原を再現した祝詞(のりと)の世界になっております。
この階段を登っている時、祝詞(のりと)が心の中から湧き上がってくるのです!
「タカマガハラニ カンマツリマス カミハー イザナギ イザナミノミコトー」
又、 ここでは石段の下から高天原越しに天神に礼拝ができるのです。

THE SHIRINE OF THE GOD OF HEAVEN 670 A.D. OF NAKATOMI & FUJIWARA,EASTERN FUSHIMI-KU,KYOTO.


北小栗栖天神宮の石段越しには北極星に向かう天。  石段の上に祭られるイザナギ・イザナミの宮
                                   天神様を地上には祭らず、ここから天に向かって
                                   祈ったのです。

THE DIRECTION OF THIS STEP IS THE NORTH STAR. THE 2 GOD's SHIRINE ON THE TOP OF THIS HILL. OF TAKAMAGAHARA. THE NAMES OF 2 GODS IS "IZA.NAGI"AND "IZANAMI" THIS PLACE IS TO WORSHIP TO
HEAVEN

大阪天満宮には本殿の背後に天御中主尊(道教の天皇大帝・天帝に相当、北極星)を祀る社があり、天神祭の船渡御は、学問の神様の祭ではなく、まさに七夕祭りの天の川を渡る神事である可能性があり、仁徳天皇時代との関連が今後の研究課題です。京都の北野天満宮よりも古い本来の天神の痕跡を残しております。淀川上流の木津川左岸、京田辺市には天津神社(アマツカミノヤシロ)があり、天御中主尊と仁徳天皇が祭ってあります。

明治時代に豊臣秀吉等の人間を神として祀ってしまった事が、現代人の間で、我が国の伝統的信仰から離れてしまった原因の一つとして浮かびあがりました。
しかし天神は我が国の伝統的宗教の中の「最高神」「全能の神」なのです。決して外国の宗教や新しい宗教に精神的な救いを求める必要はないのです。日本各地に点在する「天神社(アマツカミノヤシロ)」を見直して下さい。天神は現代日本人の精神的な救いの強い力を秘めた最も重要な根源的文化遺産なのです。日本の天神信仰には北極星を信仰する中国系信仰文化と太陽を信仰する高句麗系信仰文化が混在しております。これは当社が取り扱う中国の道教寺院や東北の高句麗遺跡を御覧頂き、又、現代語版の古事記・日本書記等の記述にも現れておりますので、皆様方が独自に御確認頂く事が可能なのです。
キリスト教の正月ではない、しかるべき正月に日本の政治家も礼拝すべきは天神なのです。

東アジアを旅行する皆様が帰国後、日本各地の史跡を探訪されますと、きっと日本文化の中から多くの興味のある発見をされる事を確信します。

      4世紀末から5世紀初頭の史跡を整備し、22世紀の大阪を飛鳥・奈良よりも古い、「倭の五王の時代の古都」としてよみがえらせましょう!仏教伝来に先立つ道教伝来の都の道教の痕跡こそ、鶴橋に近い鶴の紋の天神と天御中主の社がある大阪天満宮であり、道教思想に基づく、仁徳天皇の皇居と陵墓なのです。
「浪速時代」は飛鳥時代よりも前の時代なのですが仁徳天皇の在位期間の記述に関して古事記と日本書記が異なる記述のために「浪速時代」という表現が出来ないのです。

大阪城本丸の下に隠された石山を発掘し、真の仁徳天皇陵である事を考古学的に確認する事は不可能である事は明白です。その石室が石垣に使用されるまでに破壊されているからです。しかし、一刻も早く聖なる墳墓をしかるべき形に復元し、霊を弔い、大阪のみならず日本の象徴的な遺跡として整備すべきです。「明日香よりも古い古都大阪」のシンボルとして、外国観光客へのセールスポイントとしては、鉄筋コンクリートの昭和の天守閣とは比較にならない価値を秘めております。その第一段階としてまず、徳側家康が建てた大阪城の現在の桐の紋を本来の明治初頭時点の葵の紋に変えるべきです。

 

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 板門店ー開城間で、ほぼ完成し、2007年5月に試運転が実施された鉄路。前方が開城市。

開城経済特別区の機能が向上し、中国と香港の間で起きたと同じような目覚しい変貌も目前です。
又、釜山からソウルー平壌経由の中国行国際列車の実現も目前です。
今や、北側の板門店では軍事的緊張感はなく、朝鮮人民軍の武官が観光客と並んで記念撮影にも笑顔で応じてくれる事もあり、貴重な交流体験となる可能性も。

The completed railway which connects Seoul and Kaesong(Between Panmunjom and Kaesong)




会社名

Company

 アールティーオー インターナショナル株式会社
 RTO INTERNATIONAL CO.,LTD.

住所

Address

550-0002大阪市西区江戸堀1丁目23-26西八千代ビル 4階

4 th floor. Nishiyachiyo Bldg.,23-26,1chome,Edobori,Nishi-ku,

Osaka, 550-0002 Japan.

TEL
FAX

    06-4306-3941
    06-4306-3943

総合旅行業務取扱管理者

General travel services manager

 服部哲也 Tetsuya HATTORI 

登録

License Registration

 平成8年3月13日  大阪府知事登録 旅行業 第3−1688号
 中華人民共和国 駐大阪総領事館登録旅行社 第20号
Government of Osaka Prefecture Licensed Travel Agent
 No.3-1688

Chinese Consulate General Osaka, registered visa application Agent.

得意とする国、
独自の情報源を保有する国

 中国 朝鮮 タイ ベトナム インド ネパール
 韓国 カナダ イタリア フランス

営業時間Office Hour

 月〜金MonFri:09:30〜18:00  土曜SatAppointment system

取引銀行口座

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 三井住友銀行 船場支店 普通預金 No.1739452
Sumitomo Mitsui Banking Corporation, Se
ba Branch
Ordinary Deposit Account No.1739452

 

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